MOOSIC COLUMN #2
映画「チワワちゃん」に寄せてーーーいつまで経っても掴みとれない不確かな物を求めて。

2014年頃、上京仕立てで血気盛んな大阪の監督と会ってとある企画の話をしていたーーー二宮健監督、その人である。その時に何の流れかで紹介したのが『チワワちゃん』だった。彼がやりたい企画内容の参考に、ということだったと思う。その後、二宮監督から「この漫画は素晴らしい!僕はこれがやりたいっす!」というメッセージが来たのは覚えている。その後一緒にやろうとした企画は流れてしまい、二宮監督ともしばらく疎遠になり、数年後にメジャー映画として立ち上がっていた。いつの間に!笑、という感じで、その日からずっと楽しみにしていた訳である。

前置きが長くなってしまった。角川試写室で『チワワちゃん』を観た。一緒に行こうと誘っていた中森明夫先生はタイミング合わず、単身で試写室に入って映画を待っていると隣の席に『リバース・エッジ』の行定勲監督が座って来て椅子から落ちそうになった。神様が見ている!(by トリプルファイヤー)…そんな修行のような状況で試写が始まり、最初の10分-20分、いつもの二宮監督らしいバキバキ編集のクラブシーンが続いたが、浅野忠信の登場からグッと引き込まれ、若者たち側に引き込まれた。気がつけば映画のエンドロールでハヴァナイさんの「僕らの時代」を聴きながら、感情を表に出さないように頑張りながら、心の中で僕はスタンディングオベーションをしていたのだった。

岡崎京子の漫画にハマったのは90年代・大学1、2年生の頃だ。その中で最も好きだったのがこの「チワワちゃん」だった。その時は映画も漫画もAVもカルチャーを雑食しまくって「負け犬は吠えるがキャラバンは進む」というオザケンのアルバムタイトルを模したとても恥ずかしい自分に酔った偏見的なコラムをブログに書いてたりして今でも思い出すと恥ずかし過ぎて頭痛が止まない。

ここ最近、90年代ってなんだったろう、と最近思い返すことが多かった。「リバーズ・エッジ」「SUNNY-強い気持ち・強い愛-」と、その時代を肌で知る人生の先輩方によって立て続けに作られた映画があった。同時代を生きた者としてとても興味深く観たのだが、テーマに、時代に、真摯に向かい合えば向かい合うほど90年代という時代は空虚なブラックホールのようで、個人的にはどこかやけっぱちでシラけた気分になっていた部分があった。それは時代が変わって、自分の内面も変わって、きっと色々なことが要因にあるのだろう。総じて、ちょっと悲しい気持ちになったのだ。
そんな折に生まれた映画版「チワワちゃん」は、血気盛んな若手の二宮監督によって、自分の青春時代の記憶を不思議なほど鮮やかに蘇らせ、ラストの埠頭のシーンでは「青春」を弔うような、終わりと始まりの切なさと爽快さを感じた。

1991年生まれのニノケンには90年代ノスタルジーも思い入れもなくて、ただ純粋に「チワワちゃん」に描かれる青春の終わり、残酷さをどう映画化するか、何より自分ならどう描くか、ということに真摯に貫かれていたように思える。原作では「桐島、部活辞めるってよ」的に不在のまま描かれたチワワちゃんを、映画では実像として描いたことがむしろ、きちんとこの映画の核になっていた。確実に存在した彼女が居なくなったという事を受け入れたスチャラカな若者たちがちゃんと「人間」として、解き放たれ、少しだけ「大人」になっていくという、そんな当たり前だけど忙しい日々を生きていると忘れてしまう事象がきちんと描かれて居た。何より「岡崎京子の漫画のストーリーや背景に忠実」ということではなく、「岡崎京子の漫画を読んで感じた事」とがこの映画には染み込んでいる。思えば主題歌もHave A Nice Day!の「僕らの時代」で、これも同時代を象徴する「今ここ」な音楽を使ってきた岡崎京子らしい選曲だったように思うのだ。

僕は、全力疾走で埠頭を駆け抜けるチワワちゃんの幻(映画オリジナルの名シーン!)を見たくて、またきっとこの映画を観てしまうだろう。忘れてしまったもの、忘れられないもの、変わってしまったもの、変わらないものーーーそんないつまで経っても掴みとれない不確かな物を求めて。さよなら青春、ありがとう岡崎京子。悔しいけどありがとう二宮監督(笑)!(文=直井卓俊)